広島原爆の日
本日は広島原爆の日。
原爆投下時刻である8時15分に、教覚寺の鐘を鳴らし、寺族で合掌いたしました。大きな梵鐘のあるご近所の浄圓寺様も、同様に鐘をついてくださっていました(上の写真は終了後、格好だけ再現して撮ったものです)。
その後、NHKで広島の平和記念式典を拝見し、小学生2名のスピーチに心打たれました。その後の総理のスピーチも拝聴しましたが、是非ご自身の言葉に責任を持ち、有言実行をお願いしたいと思います。細かい言い回しで逃げ道を作るのではなく、松井市長や横田県知事、そして小学生2名に代表されるような広島の方々の願いをしっかりと汲み取っていただきたいと願います。
さて、教覚寺では今年は8月9日の長崎原爆の日に合わせて平和の鐘を開催します。月報でご紹介の通り、静岡平和資料センターを通じて大石修さんにお越しいただき、「静岡空襲を語り継ぐ」というテーマでお話しいただきます。ご自身で作られた紙芝居もご披露くださるそうです。平和について、世代を問わずみんなで考えたいと思いますし、平和への願いを共に分かち合いたいと思います。また、先週発生しました熊本地震への義捐金も集めたいと思います。ご協力何卒よろしくお願いいたします。
その後は恒例となりました流しそうめん、毎年大盛り上がりです。キッズサンガクラブの皆様が猛暑の中、竹切りからご準備くださっています。門信徒に限らず、初めての方も大歓迎です。平和について考え、平和を噛み締める1日を共に過ごしませんか。ご家族みんなでお越しください。大勢のご参加、心よりお待ち申しております。

学生時代から海外に興味を持ちアメリカやブラジルへ留学。大学卒業後に京都で仏教を学び、静岡へ戻る。現在は教覚寺の住職をつとめながら、週に1度ブラジル人学校で子ども達に日本語と英語を教えている。子どもや若者とお寺との接点をつくろうと、全国の仲間達と奔走中。
仏教の知識は全くないまま東京から嫁ぎ、とにかく奮闘中の2児の母。体を動かす事なら何でも好き。方向音痴で彷徨うのも苦ではないほど。まだまだ未熟者で頼りないですが、「大好きなお寺」と言ってもらえるように、みなさんの声を聞きながら日々励んでいきたいです。
8月9日(日)長崎原爆の日。本日は長崎市に縁のある私はこの催しにはぜひ参加したいと準備しておりました。今日の本堂にはいつもと違って多くの子供たちが参加してくれていました。日本の平和の大切さを改めて強く認識してもらうための計らいでありました。これからの日本を築いていく子供たちに、過去の戦争の厳しさ、無残さ、無益さ、繰り返してはならないこと! 難しいことでありますが子等の認識に残すようにする、教覚寺の方々のご努力を心より称賛し敬意を表します。
亡妻澄子は長崎原爆被爆者でしたので、少し事情をお知らせさせていただきます。
澄子は、太平洋戦争が勃発した翌年の昭和17年7月16日、藤井辰男さん瓊子さんご夫妻の長女として長崎市坂本町20番地で出生、その後、中川町にある藤井家で幼年時代を過ごしました。
澄子には、兄に5歳年上の長男勝敏さんと3歳上の次男清永さんがあり、弟の三男健三さん、戦後に四男洋さんが生れて5人兄弟姉妹の真ん中で、銀行員家庭の一人娘として大切に育てられました。
澄子が3歳になったばかりの昭和20年8月9日、太平洋上テニアン島から飛来した米軍のB29大型長距離爆撃機(ボックスカー:13人搭乗)が投下したプルトニュウム原子爆弾ファットマンにより、長崎市の大半が破壊され7万4千人を超える人々が一瞬のうちに亡くなりました。(当時の長崎市民:25万人)
真夏の暑い日で、父親以外の家族は中川町の自宅で昼食の準備をしていました。
午前11時2分、目がくらむような強い光と強烈な爆風が開け放した縁側から吹き込み、家族は皆、部屋の奥の方へ吹き飛ばされました。建具は飛び、窓ガラスが割れて怪我をした人もいましたが、幸い重傷者はありませんでした。何事が起きたのか、解らず皆が呆然としていました。町中で火事が発生し大騒ぎでした。中川町は浦上爆心地から6kmの距離にあました。
父親辰男さんは、その少し前に、原爆中心地の近くにあった十八銀行浦上支店から稲佐支店長に勤務を異動していた為に、幸いにも重大な被爆を免れました。この事は後々まで不思議な転身だったと、語り草になりました。
長崎市の大半が破壊されことで父親は、実姉が住む西彼杵郡亀岳村への疎開を決意し、原爆投下の二日後にリヤカーに手回り品を積み家族全員で浦上の原爆中心地の傍を通って疎開しました。
8月15日、天皇陛下の詔勅により終戦となり、亀岳村からまた原爆中心地を通って中川の家に戻りました。
当時、市民は投下された新型爆弾が原子爆弾であることや放射線の脅威についての知識は全くありませんでしたので、二度も爆心地を通ってしまいました。 この時に浴びた放射線が、後々家族の健康に重大な問題を引き起こすことになるとは、誰も気付きませんでした。 後年、この時の家族は全員が原爆被爆者に認定され、種々のガンに侵され苦悶ました。
澄子は満71歳の時に再発した乳がんにより、帰らぬ人となりました。
今は、教覚寺の法縁廟にご縁をいただき、先祖と共に東京青山墓地から改葬してお骨を収めました。
南無阿弥陀仏。
国同士の問題は外交手段を駆使して解決することに徹し、戦争は決して起こしてはならず、原子爆弾はこの世からなくすように世界の国が根気よく話し合い決定し順守しなければなりません。
宮崎様
昨日は平和の鐘にご参加くださり、まことに有り難うございました。
思い返せば、昨年の平和の鐘で宮崎様はじめ3名の戦争体験者から直接お話を聞かせていただいたことは、大変有り難いことでした。
今年も、長年にわたって戦争を語り継ぐ活動をされている大石様にお話いただき、子ども達も、昨年同様色々なことを感じてくれたと思います。
継続が大切と思いますので、引き続き来年も行なっていきたいと思います。
奥様のお話もご紹介くださり、ありがとうございました。
二度と戦争を起こしてはならない、このことを私も肝に銘じ、住職としてできることを続けてまいります。
今後とも、よろしくお願いいたします。