涅槃会(2月の門信徒会例会)
本日、教覚寺涅槃会が開かれ、昼の座に101名、夜の座に24名、合計125名がご参拝くださいました。日曜日ということもあってか、本当にたくさんの方がお参りくださり、大変有り難いことでした。今回初めて門信徒会例会に来てくださった方々もいらっしゃいました。また、先月、長年この門信徒会例会に通われたお父様(22年連続皆出席を含む27回皆勤賞でした)が往生され、初七日法要の折に是非お父様が聞いておられた阿弥陀さまのお話を聞いていただきたいとお話しさせていただいたところ、早速ご子息がお母様と一緒に来てくださり、とても嬉しいことでした。
今月も、いつものように法語カレンダーの言葉を紹介しましたが、涅槃会の意義も併せてお話しさせていただき、さらに涅槃会なので少し特別なこともしたいと思い、法話の途中途中で皆様と一緒に歌いながら、金子大榮師の「一切衆生の救われる道でなければ自分は救われない」という言葉を味わわせていただきました。
ご本願に、十方衆生が救われなければ私は決して仏にはならないと誓われてあるのですが、今月の言葉は2つの意味で受け止められると思います。まず一つ目は自分=私という受け止めです。もし、エリートだけが救われる道であれば、私は救いから漏れていたでありましょう。もし一つでも条件を課されていたら、私は救われなかったでありましょう。阿弥陀さまが一切の衆生と誓ってくださったからこそ、私自身が救われる身であったと受け止めてゆけるのです。まさに私のためのご本願でありました。
二つ目は、金子大榮師はむしろこちらの意味で言われているのではないかと思われますが、それは、自分=阿弥陀仏(法蔵菩薩)です。全てのものを救うことができなければ私は仏とはならないと誓ってくださっているということは、逆に言えば一人でも救いから漏れるものがあれば法蔵菩薩は阿弥陀仏とはなれなかった、つまり法蔵菩薩ご自身も救われなかったということになります。それほどまでの願を、五劫という途方も無い時間をかけて考え抜かれ、そしてその願いを成就するために兆載永劫という永遠のような時間をかけてご修行され、全てのものを救うはたらきが完成されたお姿が、阿弥陀さまのお姿であり、南無阿弥陀仏のお六字なのです。そのご苦労を偲び、またその願いによって建立されたお浄土に思いを馳せ、「かあさんの歌」、「念仏」、「ふるさと」の3曲を皆様と一緒に歌いました。
本日は、お寒い中、ようこそようこそお参りくださいました。ありがとうございました。


学生時代から海外に興味を持ちアメリカやブラジルへ留学。大学卒業後に京都で仏教を学び、静岡へ戻る。現在は教覚寺の住職をつとめながら、週に1度ブラジル人学校で子ども達に日本語と英語を教えている。子どもや若者とお寺との接点をつくろうと、全国の仲間達と奔走中。
仏教の知識は全くないまま東京から嫁ぎ、とにかく奮闘中の2児の母。体を動かす事なら何でも好き。方向音痴で彷徨うのも苦ではないほど。まだまだ未熟者で頼りないですが、「大好きなお寺」と言ってもらえるように、みなさんの声を聞きながら日々励んでいきたいです。