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今月のテーマ

 昨年に引き続き、猛暑日が続いています。最近引っ越してきた方に静岡の夏はこんなに暑いとは!と驚かれました。さて8月はお朝事が多く、夏の朝はとても清々しいですね。定例のお朝事会、少年会合宿の朝の会、女性の会のお朝事が予定されています。特に9日の少年会は平和の鐘、お待ちかねの流しそうめんと続きます。

今回は引き続き、戦後80年の節目の年、あなたが体験した/聞いた“あの日の話”を募集しています。

天皇、皇后両陛下のモンゴルご訪問で、「日本兵のモンゴル抑留」を初めて知りました。また「南方抑留」というインドネシアで過酷な労働を強いられたという話をラジオで聞きました。まだまだ語り継がれていないことが多くあるのですね。(k.m)

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M(少年会・本堂サンガポストより)
M(少年会・本堂サンガポストより)
3 ヶ月 前

平和の鐘で、実際に静岡大空襲に遭った方々が、その時の話をしてくれた。
特に印象に残ったお話があった。夜の大空襲で逃げる途中にお母さんの背中で、赤ん坊の弟さん(当時二歳)が亡くなってしまっていた、という話だ。その弟さんは、砂糖が大好物だった。それ以外のお菓子はその頃は知らなかったし、無かったそうだ。
それに比べて、僕はとても恵まれている。砂糖をたくさん使ったお菓子をお腹いっぱい食べられるし、様々な材料で作られる色んなジャンルの食事を満腹まで食べられるし、食べきれないことだってある・・・。だから、弟さんや、そのお母さんのことを考えると、とても心が傷んだ。今回お話を聞いて、改めて今の時代に生きる自分は恵まれているということを知り、そのことに感謝の気持ちを持たなければと改めて思った。
戦争のニュースを見聞きする毎日だけど、いつか、世界から戦争なんか無くなって、世界中の子どもたちがお腹いっぱいご飯もお菓子も食べられて、安心してぐっすり寝られる世の中になって欲しいと思う。その為に、僕はこれからもずっと「戦争反対」の気持ちを強く持ち続けたい。

S(少年会・本堂サンガポストより)
S(少年会・本堂サンガポストより)
3 ヶ月 前

私は4年生くらいの時に九州へ行きました。長崎県に平和のぞうと原爆資料館がありました。
『平和のぞうのところに本当に原爆が落ちたなんて』と一回思いました。
私は、3年生くらいのときから爆弾とかがこわかったんだけど実態験と録画と絵本を聞いたらまた少し怖くなってしまいました。
これからまた原爆などが落とされないように、原爆でまたいっぱい人が死なないでほしいなと思いながら平和の鐘、三人のお話を聞きました。

T(少年会・本堂サンガポストより)
T(少年会・本堂サンガポストより)
3 ヶ月 前

遠い存在だった戦争の「危なさ」を近くに感じた。

I(少年会・本堂サンガポストより)
I(少年会・本堂サンガポストより)
3 ヶ月 前

「痛い痛いと言っている人を助ける余裕もないくらいに自分が逃げるのが精一杯だった」という話を聞いて、大人も苦しむ中で子供ながらに生き抜いたことがすごい。

伊坂寿子(本堂サンガポストより)
伊坂寿子(本堂サンガポストより)
3 ヶ月 前

草木や 胎動会に 芽吹きをり
菩提寺の 読経始まる 盂蘭盆会
石榴の実 色付く頃に 夫と合ふ
八月の 天然の風 被爆地に
親鸞忌 ドームに掲ぐ 光寿無量

宮崎 應男
宮崎 應男
3 ヶ月 前

私は昭和19年11月にこれまで暮らしていた東京杉並の家がアメリカ軍の空襲が激しくなって、静岡市に居る母の叔父を頼って疎開しました。5歳の時です。家族は、父は戦争に応召して不在で、母と姉の三人で馬淵の借家に暮らすことになりました。年が明けて昭和20年の春、戦況が激しさを増していましたが私は静岡市立中田国民学校の一年生に入学しました。校門には厳しい顔をした若い兵隊さんが木銃に短剣を付けて立っていました。入学したけれど教科書が不足していて国語の授業では先生から銃後の覚悟の話を聞かされ、図画の時間は戦場を想像した絵を描いて過ごしました。6月19日、深夜から翌朝にかけて静岡市内がアメリカ軍B29爆撃機の空襲に見舞われました。静岡大空襲です。マリアナ諸島の米軍基地を飛び立った137機の編隊が静岡市の上空一万メートルから3時間に亘り、13,000個を超える焼夷弾と爆弾を投下しました。日本軍の高射砲はB29の高度までは届かなかった。夜の街はまばゆいばかりの真っ赤な炎によって完全に焼き尽くされました。この爆撃で死者約1,950人、負傷者約5,000人、焼失した家屋約26,800戸の大損害を受けました。私たち家族三人は真っ暗な中で母が作ってくれた防空頭巾を被り救急袋を肩にかけて住まいを飛び出し、迷いながら街の反対側の田や畑の方向に走りました。途中、焼かれて黒焦げになった人や逃げ遅れてケガをした人達をわき目に見ながらも自分たちの身を守るのが精いっぱいで避難するしかありませんでした。
夜明け近くになって空襲は終息しましたが、街は依然として燃え続けていました。自宅の戻ると住まいの家は焼夷弾が隣のアパートに落ちた延焼で完全に焼け落ちていて、命は助かったが無一物になってしまいました。
その後も日本中の街が焼かれ、8月には広島と長崎に原子爆弾が落とされてさらに多くの人たちが亡くなりました。
8月15日にやっと終戦の日を迎えました。戦争からは、何も得るものはなく何も解決しない。戦争は苦しみと悲しみと恨みを残すだけです。
辛く空しい戦争を経験した私たちは、決して戦争をしない覚悟の基に、その努力を断固として続けなければなりません。

釈行正
釈行正
4 ヶ月 前

昔の話です。若かった頃、社員旅行で広島へ行きました。夜立ちのバスに乗って朝、広島に着きました。朝、まだボーとしている目に飛び込んだ「原爆ドーム」「原爆資料館」頭を拳で殴られた様な衝撃を受けました。日本から、私達から原爆の悲惨さを発信しないとと思った今日でした。

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